初代当主:山方盛利

概要

山方盛利(やまがた もりとし)は、常陸国(現在の茨城県北部)で戦国大名・佐竹氏に仕えた山方氏の初代です。
通称は介八朗、のち左馬助、能登守。上杉一族の出身で、父は美濃国山方郡(現・岐阜県山県市)を領した山方憲利と伝わります。

永徳2年(1382年)生まれ、文安5年(1448年)没(一説に66歳)。
鎌倉での刃傷事件を経て出奔した後、佐竹家の当主となる人物の後見人として常陸へ下向し、山方氏の礎を築いた人物として知られています。

歴史的背景

山方盛利が生きた14世紀末から15世紀前半は、室町幕府が全国支配を進める一方、関東地方は独自の統治機構「鎌倉府」(鎌倉公方が統括し、関東管領がこれを補佐する体制)のもとに置かれていました。関東管領職は山内上杉家をはじめとする上杉一族が世襲する慣例が定着しつつあり、上杉一族は関東の政治に大きな発言力を持っていました。

一方、常陸国(現在の茨城県)の有力大名・佐竹氏は清和源氏の流れを汲む武家でしたが、応永14年(1407年。一説に応永15年/1408年)、当主・佐竹義盛が跡継ぎのないまま病没する事態に見舞われます。この際、山内上杉家当主・上杉憲定の子である義憲(のちの佐竹義人)が婿養子として佐竹家の家督を継ぐことになりました。しかし、源氏である佐竹家に藤原姓(上杉氏)出身の当主が入ったことに、佐竹一門の山入氏・稲木氏・長倉氏らが強く反発し、以後約100年にわたって断続的に続く内乱「佐竹の乱」の発端となります。

山方盛利は、この義憲の常陸下向に傅役・後見人として供奉した人物であり、鎌倉府・関東管領体制下での上杉一族の人的ネットワーク(盛利自身も上杉一族の出と伝わる)が、遠く離れた常陸国の大名家の家督相続に深く関わっていたことを示す事例といえます。

主な出来事

  • 永徳2年(1382年):誕生(伝承による生年)
  • 上杉一族の出。父は美濃国山方郡(現・岐阜県山県市)を領して山方氏を称した山方憲利
  • 鎌倉において高梨某という人物と争いこれを殺害。出奔し、縁戚にあたる関東管領家の上杉憲定を頼って武蔵国に匿われる
  • 応永15年(1408年。一説には応永14年/1407年とも):常陸の大名・佐竹義盛が嗣子のないまま病没。その養子として山内上杉憲定の子・義憲(のちの佐竹義人)が常陸へ下向することとなり、盛利はその傅役・後見人として供奉した
  • この功により佐竹氏の重臣に列し、山方御城(現・常陸大宮市山方)の館主として山方の地に封じられる。これにより山方氏初代となり、以後子孫は代々「能登守」を称する家系となった
  • 文安5年(1448年):66歳(一説に60歳)で死去

補足事項

義憲(義人)の常陸下向の年代について、常陸大宮市の広報資料や『新編常陸国誌』は応永15年(1408年)とする一方、「佐竹の乱」に関する研究論文を典拠とするWikipedia系の記述は応永14年(1407年)とし、1年の差異があります。複数の独立した史料が15年側で一致することから見直しの余地は指摘できますが、確定はしていません。また、義憲(義人)の父・上杉憲定と盛利の父・山方憲利は、系図上いずれも関東管領家の祖・上杉憲顕の子孫とされ(憲定は憲顕の子・上杉憲方の子、憲利は憲顕の子とする系図がある)、これに従えば義人と盛利は再従兄弟(はとこ)の関係にあったとされます。

参考図書・資料

  • 「山方城 – 常陸大宮市ふるさと文化で人と地域を元気にする事業」(広報常陸大宮 平成17年5月号)
  • 「山方御城と山方氏」パンフレット — 山方氏の出自・家系を詳述する一族史料
  • 『新編常陸国誌』諸姓の項(中山信名著) — 江戸後期の常陸国地誌。生没年・下向年・官途名を記す
  • Wikipedia「佐竹の乱」(佐々木倫朗「佐竹義舜の太田城復帰と『佐竹の乱』」1998年を主な典拠とする概説記事) — 義憲下向年を応永14年(1407年)とする対照史料

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